信長にも恐れられた!?不運の運命を辿った家康の長男・松平信康とは
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第29回 ~松平信康~
天正7(1579)年8月、信康は岡崎城における家康との争論の後に、大浜城、二股城に移され、翌月、家康の命により自害させられた。亨年21歳。その少し前には、信康の生母である築山殿も徳川家内部の政争の果てに殺害された。以下、この一連の出来事を信康事件と呼ぶ。
信康事件の政治背景と要因についてはこれまでも多くの見解が出されてきた。ここまで、四柱推命鑑定結果を踏まえて信康の性格を探ってきたが、なぜ信康事件に至ったか、筆者なりに解釈を進める。
要因として一般的によく知られているのが、信康は妻・徳姫と不仲にあり、父である信長へ信康の不行儀を書状で伝えたところ、それを受けた信長が激怒し、最終的に自害に追い込んだというもの。江戸時代初頭に著された「松平記」「三河物語」等に見られる。
これに対し、日本史学者の新行紀一(しんぎょうのりかず)氏は、膨大な史料をもとに検討を進め、信康・築山殿の周辺に謀反、あるいはそれに近い事実があったのだろうと推測した。その上で、諸書に見られる信康の行動から、主君としての能力を備えない行動が家康に処断せざるを得ない事態を引き起こしたと捉えた。
信康が劫局の八相局であるということを考慮すると、筆者も、信康が策略を用いて家康の謀反(?)を画策し、裏側で他国・武田家と繋がっていたのだろうと推測する。家康のいる浜松城を中心とする主戦派は、あくまで武田家と戦おうとする一方で、信康を中心とする岡崎城派は、武田家と協調を図ろうとしていた。信康が策を巡らして武田氏と近づき、家康を陥れようとしていたとすると、危機感を感じた家康が自害に追い込んだことも納得がいく。
それでは、信康は本当に主君としての能力を備えていなかったのだろうか?決してそうではなかったと筆者は思う。命式表だけを見ると、信長を凌駕する強靭なパワーを持ち、天下を治め、海外の遠征に踏み出しそうな勢いを持っている。大器ゆえに、家康からも信長からも恐れられていた、そのため自分たちが潰される前に亡き者にされたのではないだろうか。
八相局は、エネルギーと影響力の強さから降りかかるものも大きい。それゆえ、信康は母親が殺され、実の父親に自害を言い渡される…という最大の試練を与えられたのだろう。実際のところは本人しか知り得ないが、勝者によって歴史が少しずつ塗り替えられて来たこともまた事実なのだろう。大河ドラマや小説の影響を受けがちであるが、その裏に浮かばれない思いがあることも忘れずに行きたい。
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。
今回は、「デジタル版 日本人名大辞典 +Plus」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いてグレゴリオ暦に換算し鑑定している。
日柱の干支:その人の本質を表す重要な部分。
主星(しゅせい):月柱の蔵干通変星で、その人を表す最も重要な星。主に仕事運を表す。
自星(じせい):日柱の蔵干通変星で、その人のプライベートな部分の性格を表す重要な星。